トップページ > 寄稿、エッセイ > コジマ・ワーグナーとリヒャ ルト・シュトラウス
夫リヒャルトを亡くした後も、コジマ・ワーグナーはなお長い春秋を生きねばならなかった。最愛の夫を失い、数年あまりも失意の底に沈んでいたコジマが次に見いだした生き甲斐、夫の立ち上げたバイロイトの音楽祭を軌道に乗せることを決意して以来、ひたすらその目標に邁進する日々だけを暮らしてきたといっても過言ではあるまい。音楽・演出といった芸術面での指導はもちろんのこと、金策に走り回り、新たな人材の発掘のために各地で行われる上演を見にまわり、まさに全能のマネージャーとして、そのもてる才能をフルに発揮したのである。
そのコジマが唯一失敗したのは、ほぼコジマが築き上げたといってよいそのワーグナー王国を後の世に託すべき後継者の育成であったろう。前夫ビューローとの間には二人の子供、そしてワーグナーとの間には三人の子供があったが、その将来を嘱望し、特別に育て上げたはずの末子にして唯一の男子だったジークフリートは、親の目から見ればいかにも凡庸な子供だった。親の期待が大きすぎたのか、親に与えられた期待をこなすだけで精一杯だったのか、指揮でも作曲でも何でもそつなくこなすことはできる子供ではあったが、それ以上のレヴェルに突き抜けることはついぞなかった。ただ、この息子があと10年長生きしていたら、ナチス政府とワーグナー芸術のあり方に関しては、おそらく現在の歴史のありようとはずいぶんと違った結末を迎えていたかもしれない。
自分の息子に父親ほどの才能はない、という事実を、コジマはどのように受け止めていたのだろう。そんな中でほぼ息子と同年代、しかもすでにその実力で小さいながらも歌劇場の音楽監督として精力的に活動しているリヒャルト・シュトラウスという若者の存在を、コジマはある種の愛情、そして羨望をもって眺めていたのではないか、と考えるのはうがちすぎであろうか。
|
ヴァーンフリート・1889年10月12日
我が親愛なる友よ(訳者:これはまさに直訳。Mein lieber Freund なのだが、常々こうした手紙文を訳す際に、相手への呼びかけの言葉は頭痛の種となる。日本語にこの類の表現がないことを理由に削除してしまうことは簡単なのだが、そうするとこの表現が持つ特有の相手へのウェットな親しみの情が欠落してしまうことになる。日本語としてはこなれないのを承知の上で、こうした表現を挿入することをお許し願いたいと思う。閑話休題。)、ご報告ありがとうございます。非常に生き生きとしたご報告でしたので、まるでその《ローエングリン》の上演に居合わせていたかのように感じました。大劇場が我らの芸術をおとしめている昨今にあって、われらドイツ人を偉大な存在へと押し上げた精神は、ヴァイマールのようなより小さな劇場において、聖なるものとして保たれました。この上演に真摯に取り組んで頂いたあなたに、改めて感謝申し上げます。 実に腹立たしかったミュンヘンでの《神々の黄昏》の上演後、カールスルーエでの《ジークフリート》を見ましたが、装置が貧弱ではあったものの、私の腹立たしさを慰めてくれる上演でした。あなたのお手紙にもあったような素晴らしい精神が、この舞台をも支配していたのです。(中略) 私の都合とうまく合えば、もちろん喜んでヴァイマールまで参ります。いつ頃行けばよいかあらかじめお知らせ頂けますか。(中略) 親愛なる友よ、あなたの主眼ははっきりと言葉が聞き取れることに向けられておりますが、これは今や他のどの劇場でも欠けている点です。例えば、ミュンヘンでは音も聞き取れませんが、歌詞も一言も聴き取れません(ただ、当地の指揮者フィッシャーは非常に几帳面にこの特別な問題に取り組んでいたことは、付け加えておきたいと思います)。 あなたのこちらへのお越しは、いつでも歓迎しております。親愛なるシュトラウスさん。そうすればあなたにご満足頂けるよう、様々なことにご一緒に取り組めることでしょう。私自身も多くの疑問を抱えておりますので、感性と思慮を駆使して、その後にひな形となるような理想像を作成したいと思っております。 さようなら、我が友よ、バイロイトかヴァイマールでまたお会いしましょう。あなたがウェーバーやモーツァルトのオペラに感動されたことをうかがい、うれしく思いました。是非あなたの指揮によるこれらのオペラを聴いてみたいものです。(中略・カールスルーエで観たシャブリエの歌劇《グヴェンドリーヌ》をひととおりくさした後で)いま、オーベールこそが、最後のフランスの作曲家だと思います。ただ18世紀の高貴な流れを組む流派はオーベールもほとんど知らず、今やそれを体現しているような人は全くいなくなってしまいました。(以下略) コジマ・ワーグナー
|
で、結局コジマはヴァイマールに行くのか行かないのか? ということが気になるせっかちな読者のために種明かしをしておくと、この後数度にわたる手紙のやりとりが続いた後、翌1890年2月19日、コジマはヴァイマールではなくライプツィヒで上演された《ローエングリン》によって、はじめてシュトラウスの指揮したワーグナーを聴くことになる。そこにたどり着くまでにはもうしばらく時間を要するが、読者にはこの親密になり始めた二人の軌跡とゆっくりおつきあい頂きたい。
この間髪を入れずに返信された手紙に対するシュトラウスの返答は、一ヶ月以上後の11月26日だった。多少間が空いているので、この一ヶ月半のシュトラウスの活動を追ってみよう。10月、11月はほとんどヴァイマールに滞在し、《魔弾の射手》《魔笛》《フィガロの結婚》《エジプトのヨゼフ(メユール)》などを上演する傍ら、三度の定期演奏会を開いている。この演奏曲目が非常に興味深いので、紹介しておきたい。
|
10月28日 第一回演奏会:
ベートーヴェン《シュテファン王》序曲、ビューロー《ニルヴァーナ(涅槃)》、リッター、ラッセンの二つの歌曲、自作の歌曲《セレナーデ》初演、リストの交響詩《理想》。 11月11日 第二回演奏会: ケルビーニ 歌劇《アバンセラージュ族》序曲、ウェーバーの演奏会用アリア、サン=サーンス《チェロ協奏曲第一番》作品33、シューベルトの歌曲を二曲、自作の《ドン・ファン》初演、ベートーヴェン《交響曲第六番・田園》。 11月25日 第三回演奏会: ベートーヴェン《レオノーレ》序曲第一番、《ピアノ協奏曲第三番》、協奏曲のソリストを務めたシュターヴェンハーゲンの《ズレイカ》(本人の指揮)、リスト《死の舞踏》、ベルリオーズ《幻想交響曲》。 |
19世紀のコンサート・プログラムは概して長く、聴く方も弾く方もよくこれだけの曲を一晩でこなせるだけの体力があったものだ、と感心してしまうことが多い。ただ、このプログラムであれば、現代のコンサートでも是非聴いてみたいと思わせるようなバランスの良さがあるし、シュトラウスの選曲眼の鋭さも際だっている。音楽史的に注目すべきは、第二回の演奏会で初演されている《ドン・ファン》だろう。もちろんこの曲が単独で初演されたのではなく、他の曲と一緒に演奏されたのだろう、とは漠然と考えていたが、他の曲はサン=サーンスをのぞけば全て古典派の曲である。自作の新鮮さを際だたせるために周りを古典派の曲で固めた、と考えることもできるし、不朽の名作に囲まれていても、それに負けないだけのパワーが自作にはある、というシュトラウスの強烈な自負心すらも感じることができる。第三回のメインに据えられた《幻想交響曲》も、シュトラウスがどれだけベルリオーズを高く評価していたかの証左となるだろう。これは後に、シュトラウスがベルリオーズの著書《管弦楽法》にコメントをつけて出版する際の、大きな布石となっている(なお、来年後半にこの本の翻訳が出版される予定である。ワーグナーの譜例も数多くあり、ワーグナー協会の皆様にとっても興味深い資料となるだろう)。
第三回の演奏会を終えた翌日、シュトラウスはようやくまとまった時間がとれたのか、コジマに先日の手紙への返礼をしたためはじめた。(第四回に続く)
(手紙の文面はなるべく原文の意図を再現するようにつとめてはおりますが、 読みやすさを優先するため、ところによって訳者による文章や語句の省略・言 い換えなどがありますことをご了解ください。)
