コジマ・ワーグナーとリヒャルト・シュトラウス
           

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(6)《ローエングリン》の上演

以前別の場所で、30歳代のリヒャルト・シュトラウスについての文章を書いたことがある。ミュンヘン歌劇場に勤めながら、自身の芸術や考えにいっこうに共感と理解を示そうとしない上司に対して不満を募らせ、その結果として生まれたのが《ドン・キホーテ》や《英雄の生涯》、あるいはオペラ《フォイヤースノート》だった、という話である。人間三十代になると、否が応でも組織の中に巻き込まれ、その組織でもまれるようになる。この連載ではそれよりも数年さかのぼった25〜26歳の頃のシュトラウスの姿を描いてきたが、小さな歌劇場とはいえひとつの組織の中で、シュトラウスはこの葛藤を早い時期から経験していたことに驚かされる。

シュトラウスが「ホモ・ポリティクス」、政治的な人間であったかどうかに関しては、多くの議論がなされている。この後、シュトラウスは主要な歌劇場の音楽監督を歴任するにつれ、時の政府高官とも密接なつきあいを持つようになる。統一ドイツ帝国、ヴァイマール共和国、そしてナチス政府ともつきあいがあったのは周知の事実であるし、こうした高官と折衝を重ねて多くの利益を勝ち取ろうとした点を見れば、シュトラウスはまさに「ホモ・ポリティクス」であったのだろう。ただその活動をつぶさに検証していけば、シュトラウスが自分の持つ権力を行使して勝ち得ようとしたものは、音楽家、さらに言えば作曲家としての生活を保障するための権利のみであったことがわかる。著作権やオペラ・音楽作品の上演権の確立などに尽力したのは、もちろん自分の利益を守るためでもある(この点はシュトラウス=守銭奴としての悪評にもつながるのだが、彼が生涯に稼いだギャラは、例えばフルトヴェングラーなどの売れっ子指揮者に比べればずっと少なかった)。しかし、長い目で見れば、音楽家が作り出した音楽に対する権利が守られるようになったのは、まさにこのシュトラウスの働きがあったればこそであろう。ドイツでは、著作権運動に尽力した人物には、現在でも「リヒャルト・シュトラウス・メダル」が贈られるそうである。

残されているシュトラウスの往復書簡は、その多くがこうしたビジネスマンとしてのシュトラウスの側面を伝えるものが多い。ホフマンスタールやツヴァイクと言った台本作家、ベームやクラウス、クナッパーツブッシュなどの指揮者、いずれも仕事の打ち合わせのために交わされた内容であることがほとんどであり、その時々のシュトラウスの心情などがかいま見えるものは少ない。頻繁に引用される有名な文面は、そうした数少ない彼の心情が吐露されているものが選ばれている、とも言えそうである。シュトラウスとコジマの往復書簡は、後半になってシュトラウスがバイロイトの運営に関わるようになるに従い、ビジネスとしての側面がより増えていく。しかし、今回の連載で紹介した文面は、いずれも率直な芸術上の教えをコジマに乞うものであり、いわば友人同士の手紙と言った趣が強い。読み手もビジネスの話が延々と続くよりは、こういうほうがはるかに読んでいて面白いし、今回この場をお借りしてこの往復書簡集をご紹介しようと思ったのも、一つにはそうした雰囲気を読者の皆様にお伝えしたい、と思った故である。

インフルエンザからもようやく立ち直ったシュトラウスは、その活動を本格的に再開しはじめる。1月30日にはビューローの指揮による《ドン・ファン》のベルリン初演が控えており、同時期に滞在する予定だったコジマにもその旨を伝えて、自身の新作を聴いてもらおうとしている。以下はその返事である。そして、2月にはようやく《ローエングリン》の上演が予定された。

フランクフルト  1890 年 1 月 20 日


私のベルリンの滞在は、新演出の《タンホイザー》(27日を予定)を見越してのものでしたが、アウグスタ皇后の死去に伴い、上演と私の出席は無期延期となったため、貴方ともお会いできなくなってしまいました。コーブルクには二日間滞在する予定です。貴方が劇場のお仕事で18、19日にいらっしゃれるのであれば、それを楽しみにしています。

ドレスデンのご報告、私にとっては大変価値あるものでした! オーケストラの投げやりで共感を欠く演奏、私にはありありと想像できます。盛大に開かれるレセプションでの招待客の様子、優雅なお姫様やプリマドンナにお世辞を言うような客に、私はずっと我慢を重ねてきたものです。その他のことも、何とよく想像できてしまうことでしょう!(中略)

敬具

C. ワーグナー

コーブルク 1890年2月15日


明日の2時12分にコーブルクを発ち、夜の7時23分にヴァイマールに到着します。月曜日まで滞在の予定です。必要ならば火曜日までは滞在できます。

もし差し支えなければ、ホテル「エルププリンツ(皇太子)」に、二つのベッドと隣に小さなサロンのある部屋を予約してください。どちらも小さく、良く暖房の効いている部屋でお願いします(ひどいホテルの部屋には辟易しているのです)。

もし劇場関係のお仕事でお忙しければ(明日は日曜日ですが)、われわれのことにはお構い下さらなくて結構です。仕事が終わった後に、ご一緒に夕食ができれば幸いに存じます。 では、お会いできるのを楽しみにしています!

敬具

C. ワーグナー

数多くの資料を読み合わせていると、そこには多くの矛盾や疑義が生じるのが常である。2003年に出版された最新の資料である「リヒャルト・シュトラウス年表」を見ると、2月16日にコジマとシュトラウスが会ったのはライプツィヒで、と言うことになっている。しかし、コジマ本人の手紙を見ても、その他の状況証拠を積み重ねていっても、16日にコジマがやってきた地は疑いなくヴァイマールであり、そうなると19日に上演された《ローエングリン》が上演されたのも、ヴァイマールでなければつじつまが合わない。シュトラウスが突然ライプツィヒに赴き、ワーグナーの大作を指揮するというのも、状況的に無理がある。第三回の連載の段階では、筆者はまだこの「リヒャルト・シュトラウス年表」の記載が間違っているという確信が持てなかったため、ライプツィヒで上演された、としておいたが、やはりここで、コジマが初めてシュトラウスの指揮するワーグナー作品を聴いたのは、1890年2月19日、ヴァイマールでの《ローエングリン》上演の際、という結論を出し、第三回の発言を訂正しておきたい。

また、コジマが到着する前日の15日、前夫ハンス・フォン・ビューローもヴァイマールでコンサートを開き、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第五番、リストのピアノ協奏曲第一番などを演奏しているが、翌日にはコジマとの面会を避けるようにヴァイマールを去っている。恐らくシュトラウスから、翌日にコジマがやってくることは聞かされていたであろうから、意識的に会うことを避けたのだろう。

肝心の往復書簡集、あるいはその他の記載を見ても、当事者同士による19日の上演の詳細や感想をわずかにしか知ることはできないのは大変残念である。ただ、その後より親密さを増していく往復書簡の筆致や、シュトラウス自身の活動の幅が広がっていくことなどを考え合わせれば、コジマがその上演に対して好印象を持ち、後年のバイロイトへの指揮台への道を切り開く最初のきっかけとなったことは、想像に難くない。以下は、《ローエングリン》上演の後に記された、わずかなやりとりの抜粋である。

ヴァーンフリート 1890年2月25日


貴方が《ローエングリン》で見せた真摯な心は、深く私の胸を打ちました。この上演を聴き、貴方がこれからの人生を神の祝福と共に歩まれるであろうことを、深い喜びと共に確信した次第です。

上演を聴いて貴方にいくつか気がついたことをお伝えしようと思い、それを別紙に記しておきました(訳注:この別紙は失われている。大変残念!)。しかしながら、私はこうした作業を進めるのが大変遅く、まだ第一幕までしか書けていません。お会いしたときに個々の点についてはお話しいたしましょう。

C. ワーグナー

ヴァイマール 1890年3月3日


《ローエングリン》についての覚え書き、お時間がありましたら、さらに書き進めていただきたく、心よりお願い申し上げます。しっかりと心にとめ、忠実に従っていきたく存じます。

リヒャルト・シュトラウス

この後、将来の妻となるパウリーネ・デ・アーナが将来を嘱望されたソプラノ歌手として登場し、シュトラウスとパウリーネは、ワーグナーのオペラ、あるいはシュトラウス自身のオペラを介して向かい合うことになる。指揮者として、作曲家としてのシュトラウスの活動はさらに広がりを見せることになるし、コジマとの関わり合いもますます親密となっていく。二人の往復書簡はさらに面白みを増していくが、今回のこの連載はシュトラウスとコジマが巡り会ったところで一区切りを付け、一旦終了とさせていただこうと思う。この続きは、また時を改めて執筆できればと考えている。

連載をお読みいただいた皆様には、心より感謝申し上げます。

(了)

(手紙の文面はなるべく原文の意図を再現するようにつとめてはおりますが、 読みやすさを優先するため、ところによって訳者による文章や語句の省略・言 い換えなどがありますことをご了解ください。)

<広瀬大介    一橋大学大学院後期博士課程  専門分野:音楽学  日本ワーグナー協会員>